恐れを手放す [ひとり言]
どれ一つ同じ花はない
今日は少しネガティブなお話しから始めたいと思います。
物語も映画も、そして人生も
最初は、順風満帆に見えても、どこかで思わぬ方向へ逸れ、
様々なネガティブの感情を抱くイベントに辛さを感じて、
そして、大半の方がハッピーエンドとなります。
終わりよければ全てよしと言います。
ハッピーな死を迎えるか、アンハッピーな死を迎えるか
それが問題です。
―――シェイクスピア―――ではありません
いずれ訪れる死を自覚しながら生きている動物は人だけだと言います
本当にそうでしょうか
自然界の動物の多くは、死期が近づくと身を隠し、静かな死を迎えます。
まるで死も自然の流れのひとつのように。
人は、誰にも等しく訪れる死を、誰もが恐れています。
もちろん、日常は、そんなこと全く意識もせずに生活していますが。
善光寺をお参りされた方は、どこかにこんな内容のことが書いてあるのに気づかれたかと思います。
今日一日を、今日死ぬ運命にある人と同じ気持ちで生きてみてください。
わずか1分1秒も無駄にはできないはずです。
ここで言う1分1秒は、行動だけのことを言っているわけではありません。
自分らしく、充実した今を過ごしているかどうかと言うことでしょう。
もし、これができたら、恐れも、怒りも、悲しみも、嫉妬も心の中には存在しえなくなります。
たびたび道元禅師の言葉をお借りしますが、
道元禅師の正法眼蔵『行持』の巻に、「光陰は矢よりも迅なり、身命は露よりも脆し・・・徒らに百歳生けらんは恨むべき日月なり、悲しむべき形骸なり、設ひ百歳の日月は声色の奴婢と馳走すとも、其中一日の行持を行取せば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の他生をも度取すべきなり、此一日の身命は尊ぶべき身命なり」とあります。
時が経つのは飛ぶ矢よりも速く、また我々の生命は朝露が日光で消え去るよりももろくてはかないものであり、過ぎ去った時を取り戻すことはできません。 ・・・ 無益に百年長生きたところでせっかくの生涯も、それは恨みや後悔の多い月日です。悲しむべき命だったと言うことになります。たとえ百年の長い人生を、お金や欲望に振り回されて、我欲を満たすために過ごしてきても、自分の人生とは何だったのかというむなしさに気づく人もいるでしょう。しかし、その中で1日だけでも真実の生き方をしていたならば、全ての人生が有意義なものになります。
という内容の人生訓です。
さて、話を戻しますが、人が往々にしてとらわれがちな「恐れ、不安、怒り、悲しみ、嫉妬」の心は、真実の生き方から生まれるでしょうか?あるいは自分自身を幸せにし、誰かを幸せにできるでしょうか。
そのような心持ちでいれば、それこそ「徒らに百歳生けらんは恨むべき日月なり、悲しむべき形骸なり」と言うことになります。
私の仕事は、日々、人々の死に対する恐れと相(あい)対することです。
人は、何かの体調不良が起これば、まず何か悪い病気ではないか、死んでしまう病気ではないかと恐怖します。
健診や人間ドックを受けては、異常値があると、まるで癌の宣告を受けたかのように、恐怖し、病気ではないことが判明するまで不安な日々を過ごします。
「それが人間なんだ。」とおっしゃる方がいますが、そういってしまうと「恐れ、不安、怒り、悲しみ、嫉妬」の苦を生む感情を容認してしまいます。真実の生き方を放棄することになります。
残念ながら死の病を宣告しなければならない方も、中にはおられます。
その人達の心から、「恐れ、不安、怒り、悲しみ、嫉妬」を取り去り、真実の生き方に目覚めていただくことができたら、
「一日の行持を行取せば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の他生をも度取すべきなり、此一日の身命は尊ぶべき身命なり。」と言うことになります。
誰一人同じ人生を歩む方はいません。生きる長さも違います。
他人の人生と比べても意味のないことです。
全てがこの上もなく尊いものです。
では、真実の生き方に目覚めるとはどういうことでしょうか?
全ての答えは、自分自身の中にすでに備わっています。
生きてきた人生の中で、「何をなしたか」よりも「どうあり続けるか」が大切なように思います。
以前、私の友人のお母さんが死の病に伏せっていらっしゃるときに、
「体は重い。でも、真実に気づけば心は軽い。」と私に向かっておっしゃいました。
その言葉が、私の心に焼き付いて離れません。
親鸞聖人がおっしゃっているように、たとえ今いる場所が地獄のような所でも、自分の心のありよう次第で極楽浄土にできると。
宇宙のエネルギーは全て「愛」と以前お話ししました。
自分自身の心のありように気づき、「今ここ」に意識を集中すれば、穏やかな、そして満ち足りた愛の心であり続けることが真実の生き方であることに気づきます。
それに気づけば、人は必ず「菩提心」が備わっていることに気づきます。
菩提心とは、自分自身がこれから行こうとする、愛に満ちた幸せな世界へ、他の人たちも同じく導こうとする心のことです。
つまり、誰かを幸せにしたいと思う愛の心です。
たった1日でもいい、菩提心にあふれた真実の1日が過ごせたら。
そこに、「恐れ、不安、怒り、悲しみ、嫉妬」の心が入り込む余地はありません。
恐れのない、愛に満ちた人生はすでにあなたに備わっています。
気づくだけです。
Be Happy!
presented by
石原クリニック
http://www.ishihara-clinic.jp/
石原クリニックセラピールームETERNAL COMFORT
http://www.ishihara-clinic.jp/eternal/index.html
ランキングアップにご協力を.
今日は少しネガティブなお話しから始めたいと思います。
物語も映画も、そして人生も
最初は、順風満帆に見えても、どこかで思わぬ方向へ逸れ、
様々なネガティブの感情を抱くイベントに辛さを感じて、
そして、大半の方がハッピーエンドとなります。
終わりよければ全てよしと言います。
ハッピーな死を迎えるか、アンハッピーな死を迎えるか
それが問題です。
―――シェイクスピア―――ではありません
いずれ訪れる死を自覚しながら生きている動物は人だけだと言います
本当にそうでしょうか
自然界の動物の多くは、死期が近づくと身を隠し、静かな死を迎えます。
まるで死も自然の流れのひとつのように。
人は、誰にも等しく訪れる死を、誰もが恐れています。
もちろん、日常は、そんなこと全く意識もせずに生活していますが。
善光寺をお参りされた方は、どこかにこんな内容のことが書いてあるのに気づかれたかと思います。
今日一日を、今日死ぬ運命にある人と同じ気持ちで生きてみてください。
わずか1分1秒も無駄にはできないはずです。
ここで言う1分1秒は、行動だけのことを言っているわけではありません。
自分らしく、充実した今を過ごしているかどうかと言うことでしょう。
もし、これができたら、恐れも、怒りも、悲しみも、嫉妬も心の中には存在しえなくなります。
たびたび道元禅師の言葉をお借りしますが、
道元禅師の正法眼蔵『行持』の巻に、「光陰は矢よりも迅なり、身命は露よりも脆し・・・徒らに百歳生けらんは恨むべき日月なり、悲しむべき形骸なり、設ひ百歳の日月は声色の奴婢と馳走すとも、其中一日の行持を行取せば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の他生をも度取すべきなり、此一日の身命は尊ぶべき身命なり」とあります。
時が経つのは飛ぶ矢よりも速く、また我々の生命は朝露が日光で消え去るよりももろくてはかないものであり、過ぎ去った時を取り戻すことはできません。 ・・・ 無益に百年長生きたところでせっかくの生涯も、それは恨みや後悔の多い月日です。悲しむべき命だったと言うことになります。たとえ百年の長い人生を、お金や欲望に振り回されて、我欲を満たすために過ごしてきても、自分の人生とは何だったのかというむなしさに気づく人もいるでしょう。しかし、その中で1日だけでも真実の生き方をしていたならば、全ての人生が有意義なものになります。
という内容の人生訓です。
さて、話を戻しますが、人が往々にしてとらわれがちな「恐れ、不安、怒り、悲しみ、嫉妬」の心は、真実の生き方から生まれるでしょうか?あるいは自分自身を幸せにし、誰かを幸せにできるでしょうか。
そのような心持ちでいれば、それこそ「徒らに百歳生けらんは恨むべき日月なり、悲しむべき形骸なり」と言うことになります。
私の仕事は、日々、人々の死に対する恐れと相(あい)対することです。
人は、何かの体調不良が起これば、まず何か悪い病気ではないか、死んでしまう病気ではないかと恐怖します。
健診や人間ドックを受けては、異常値があると、まるで癌の宣告を受けたかのように、恐怖し、病気ではないことが判明するまで不安な日々を過ごします。
「それが人間なんだ。」とおっしゃる方がいますが、そういってしまうと「恐れ、不安、怒り、悲しみ、嫉妬」の苦を生む感情を容認してしまいます。真実の生き方を放棄することになります。
残念ながら死の病を宣告しなければならない方も、中にはおられます。
その人達の心から、「恐れ、不安、怒り、悲しみ、嫉妬」を取り去り、真実の生き方に目覚めていただくことができたら、
「一日の行持を行取せば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の他生をも度取すべきなり、此一日の身命は尊ぶべき身命なり。」と言うことになります。
誰一人同じ人生を歩む方はいません。生きる長さも違います。
他人の人生と比べても意味のないことです。
全てがこの上もなく尊いものです。
では、真実の生き方に目覚めるとはどういうことでしょうか?
全ての答えは、自分自身の中にすでに備わっています。
生きてきた人生の中で、「何をなしたか」よりも「どうあり続けるか」が大切なように思います。
以前、私の友人のお母さんが死の病に伏せっていらっしゃるときに、
「体は重い。でも、真実に気づけば心は軽い。」と私に向かっておっしゃいました。
その言葉が、私の心に焼き付いて離れません。
親鸞聖人がおっしゃっているように、たとえ今いる場所が地獄のような所でも、自分の心のありよう次第で極楽浄土にできると。
宇宙のエネルギーは全て「愛」と以前お話ししました。
自分自身の心のありように気づき、「今ここ」に意識を集中すれば、穏やかな、そして満ち足りた愛の心であり続けることが真実の生き方であることに気づきます。
それに気づけば、人は必ず「菩提心」が備わっていることに気づきます。
菩提心とは、自分自身がこれから行こうとする、愛に満ちた幸せな世界へ、他の人たちも同じく導こうとする心のことです。
つまり、誰かを幸せにしたいと思う愛の心です。
たった1日でもいい、菩提心にあふれた真実の1日が過ごせたら。
そこに、「恐れ、不安、怒り、悲しみ、嫉妬」の心が入り込む余地はありません。
恐れのない、愛に満ちた人生はすでにあなたに備わっています。
気づくだけです。
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石原クリニック
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2012-03-04 01:24
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